私は善い人

今日は久々に「心のプレート」をご紹介したい。

題名はズバリ「私は善い人」というものだ。

 

誰もが自分を善人だと思いたがる。

だが、そこには主観的な思いが存在している。と僕は思っている。

 

例えどんな悪い事をしている人間でも、自分自身を善人と見間違うことがあるからだ。

あるいは、真面目で善い人と思われ、自分でもそう思っていた人でも、自分の主観と違う価値観を突きつけられた時、初めは善人であった者が、次第に豹変していくことはよくあることだから。

 

裏プレート私はいわば善人の塊である。

私は間違いなく善い人だ。

誰が見ても人から信頼されるし、人との約束は守る。
というようなところで、人に疑われるような事、後ろ指刺されるようなことは一切やっていない!

ということは、私は、模範的生徒である。

いわば模範的な社員である。

果ては模範的な人間である。

従って、私は人から文句を言われる筋合いというものは発生しない。

善い人だからそれが当然である。

もしそのようなことがどこかで発生しているとしたら、

それは私に対する単なる非難中傷に過ぎない。

そのような者は、善に仇なす悪として石をぶつけてやらなければならない。

あるいは完膚なきまでに叩きのめすことを遠回りにやって、意地悪と悟られないような仕返しをすべきである。

かろうじて相手にその意味が少しでもわかったとしたら(伝わったとしたら)、それはそれとして大いに成功だったといえるであろう。

「人の振り見て、我が振り直せ」というが、我が振りを見て、人は多くを学ぶべきである。

私が学ぶべきところはそう多くはない。

なぜなら、私は与えるべき存在であり、人から与えられるべき存在ではないからである。

表プレート私は多くの出来事や多くの人たちから、多くを学び取らなければならない。

私の完成目標はあくまでも高く、自己の低い完成目標に甘んじてはならない。

それには、よくよく自分の欠点、あるいは弱いところ、あるいは修正すべき点を良く発見し。

これを修正し、そのための努力は一切惜しまないで、全力でそれを習得するか、強化するか、ということが非常に重要になってくるのである。

私の心の中で一番重要であり、気を付けておかなければならないのは、人を見るとき、あるいは人から学ぶときに、愛情がベースになっているか否かということである。

もし私が人を見たときの判断が、愛情を欠いたところから湧き出る思いであるとしたならば、それは大方の場合は修正すべき点があることに気付かなければならない。

「人の振り見て、我が振りを直せ」ということわざがあるように、もし自分が人の嫌なところを見つけ、それは嫌だな、と判断した自分がいることを考えてみたら、自分の心の中に、それを持った自分がいまだ潜んでいるということを十二分にうかがい知ることができるのである。

それは往々にして当たっていることが多い、ということに気付くべきである。

特に「激しい感情が出てくる嫌悪感は、過去世において自らが為した行為行動である」ということはほぼ間違いないと知るべきなのである。

そのような観点に立って自己完成というものを怠りなく行っていこう。

 

どうですか? 今日の心のプレート。

 

善い人って素晴らしいけれど、この裏プレートを読む限りじゃ、この考えのどこに愛情や、人によりそう優しさや、人と共感する思いが入っているんだろうか?と考えてしまう。

しかし、裏プレートは、やがて表プレートにひっくりかえる為の原点だから、誰もが成長過程では経験しなければならない事なんだ。

 

だけど、同じ経験するのなら、その意味に早く気がついて、表プレートにひっくり返してしまうことだ。

裏プレートを読んで、自分と同調するところがあると気がついたのなら、「こんな自分じゃ嫌だ。表にひっくり返れ!」と自分を鼓舞して自己改革していくことだ。

 

カルマの達人 入澤清司

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